電脳コイル『ヤサコとイサコ』

都市伝説によると、電脳ペットは死んだ後、ある場所に移り住むそうです。
 終わってしまいました。本放映・再放送と一年間に亘って楽しませて頂いたこの作品とも今日でお別れかと思いますと、なにやら胸に来るものもありました。
 結局の所、電脳コイルの大切な要素である「電脳空間」のお話は「ぼんやり」とした理解しか出来ずに終了してしまいました。二周連続で視聴したにも拘らずこの体たらくなのですから、つくづく己の「SFマインド」の無さにあきれるほかはありません。そのへんはこれから先、なにか機会がある毎に再視聴して理解を深めることにしたいと思います。そういう楽しみが残った事が今は嬉しかったりしております。
「小此木優子」と「天沢勇子」
 最近では「女の子」が主人公の作品は珍しくもありませんので、この作品を観始めた時も特に気にした事はありませんでした。「おこのぎゆうこ」と「あまさわゆうこ」の二人が同じ名前で、それぞれに「ヤサコ」「イサコ」という呼び名が付けられ物語が始まった時も、単なる言葉遊びの類だと考えておりました。
 でもこれは私の不明でございました。4423の空間に住んでいた「ヌル」を「ミチコさん」として誕生(変質かもしれませんが)させるという行為のためには純粋に生物学的に「生み出す性」としての女性が必然であったのでしょう。さらに「カンナ」や「ミチコ」「おばちゃん」など、主要な登場人物の多くが女性で占められていたのも偶然ではなかったと思います。広義における「命」を紡ぐ存在として、この作品の主人公は「女の子」でなければならなかったのだと思えてなりません。
 名前についても「ミチコ」を生み出すためには「二人のゆうこ」が必要(ひとりでは「命」を生み出すことができないという事なのでしょう)で、「おこのぎゆうこ」があの場所にたどり着けたのはその名前を持っていたからという暗示のような気がしてなりません。そして「やさしさ」や「いさましさ」という生きてゆくために必要な仮の名を、その空間で得たということのも意味があったのだと思います。
 イサコは安住の地を捨てて「痛みのある世界」へ歩き出しました。そこは苦しいことや悲しいことの方が多い場所ですが、なにかを生み出す場所です。そして自分ひとりではなく「友達」や「仲間」がいる世界、歩いて行くのに値する世界という事が監督の伝えたかった事のような気がしてなりません。
その他
 本作の作画のレベルの高さは本当に見事でございました。百聞は一見にしかずと申しますが、こういうことは口でいくら説明しても伝わるものではありません。レビューサイトのようにキャプチャーした絵を貼ったとしても同様でございます。「動いている」絵の評価は「止まった」絵ではできません。魅力の一端を垣間見ることは可能かもしれませんが、やはり本編をご覧くださいとしか書けません。
 猫目のその後や、イサコの中学校の制服姿が見たかったなど多少不満(笑)もあるのですが、先ずは大団円でございました。4423の空間は崩壊してしまいましたが、イリーガルたちが生きている空間全てが崩壊したわけではないでしょうし、ありえない話ではありますが、何年かのちに新しい「電脳コイル」が観ることができたなら・・・、本当に久しぶりにそう思わせてくれた作品に出会えて幸せでございました。