電脳コイル『メガネを捨てる子供たち』

天沢勇子の言葉によると、人と人をつなぐ心の道は、細く途切れ易いそうです。
 最終盤にきてダイチの見せ場がやってきました(笑) いじめられているフミエを助けるダイチの格好よさは、これまでギャグメーカーだったダイチへの監督のささやかな恩返しのようで嬉しゅうございました。これぞ本物の「オヤビン」(誤字ではありません)といったところでしょうか。
 さて、磯監督は「電脳空間」を扱ったこの作品を作った時、「本物」と「またかし」という問題について随分拘ったのでしょう。第17話『最後の夏休み』では医者に「子どもはもっと本物の何かと遊んだ方がいいね。ちゃんと手で触れる何かと・・・」と言わせ、前回の第23話『かなえられた願い』ではイサコに「メガネで見えるものなんて全てがまやかしだ。もうメガネなんて捨てろ!そして手で触れられるものだけを信じるんだ」、そして今回はヤサコの母親に「こうして触れるものが、温かいものが信じられるものなの。(中略)それが生きてるってことなの」と語らせました。
 その設問に対する磯監督の答がヤサコに語らせた以下の台詞なのでしょう。

「この世界は皆手でさわれる物で出来ている。手でさわるとサラサラだったりふかふかだったり・・・。これからは手でさわれる物だけを信じて生きていこう。手で触れられないものはまやかし。だからこの悲しい気持ちもきっとまやかし。ホントは悲しくなんかない。こんな辛い気持ちもきっとすぐに忘れる。だってまやかしなんだもの、本当に・・・」
 「・・・本物ってなに?手で触れられるものが本物なの?手で触れられないものは本物じゃないの?今本当にここにあるものはなに?間違いなく今、ここにあるものってなに?・・・胸の痛み。今本当にここにあるものは、この胸の痛み。これはまやかしなんかじゃない。手で触れられないけど、今信じられるのはこの痛みだけ。この痛みを感じる方向に本当のなにかがある!」

 「電脳」と「現実」、どちらが本物なんて事は実は意味がないのでしょう。大事なことは「感じる」こと。手で触れても、心で感じたり記憶したりできなかったら、それはなにも意味を持たないと思います。今回はヤサコに語らせるというベタな演出でしたが、歳若い視聴者に伝わるようにこういう演出にしたのだと思います。色々な経験(喜怒哀楽全て)を大事にしようという監督の想いが伝わってくるエピソードでございました。