電脳コイル『カンナとヤサコ』

私の古い記憶によると、最初に用意された体は、命のない空っぽの器だったそうです。
「おばちゃん」の4年前というと13歳ですから、分別はないこともないのでしょうが、この年頃の子供であれば危険を省みる事よりも好奇心の方が勝ったということなのでしょう。結果が良い方向で終わったのなら「原川玉子の武勇伝」として語り草になったのでしょうが、残念ながらおばちゃんの挑戦は数々の厄災をもたらしてしまいました。何人もの子供たちが意識を失うといった、それは子供だけで後始末できる規模ではなかったでしょうし、さらに悪い事に一度開いた「扉」からはヌルが出現するようになってしまった。大人たちの騒ぎを見て事の重大さを知った「おばちゃん」はさぞかし怯え、そして子供心に自分の手でこの後始末(開いた「扉」を閉じる事)をしようと決意した・・・、語られた事から語られなかった事を想像できるのは監督の手腕によるところでございます。
今回は見所が多くて25分がいつも以上に短く感じられました。ヤサコとカンナの会話シーンはどう受け取って良いのか困ってしまいました。カンナの形をしたヌルは本当にカンナの意識を持っていたのか?それともヤサコの「そう思いたかった」心にヌルが反応して喋ったのか?他にも違った解釈が出来そうなシーンでした。この辺は各人の好きな解釈しても宜しいのでしょうかしら?
他にも「2.0」の圧倒的なパワーの前に違法改造した「ポチ」が殉職したとか、ヤサコを守って「モジョ」が「死んだ」(この作品を観ていたら例え電脳生物、つまりプログラムだと分かっていても「死んだ」と書く方が正しいと思えますのでこう書きます)とか、ドサクサ紛れの愛の告白(でも実はあのタイミングで告白することにこそ意味があるのだと思っております)とか、怒涛の用語解説とか、とにかく盛り沢山で1回観ただけ(今もビデオ回しながらこれを書いております)では理解するのは少し難しいものがあります。もっともこの作り方は大好きなのですが。
本編とは全然関係ありませんが、サッチーと2.0を見比べていますと同じ機能を持って(2.0の方が後継機種ですから優秀なのは分かっております)いますが、ネーミングといいユーザーインターフェイスといいサッチーの方に親しみを持ってしまいます。機能優先が正しいわけではございませんね。