フラクタル EPISODE 10『僧院へ』

単身僧院へ向かったフリュネを救い出そうとクレインとネッサが僧院へ乗り込んだお話。
放送開始前に「枠」はすでに決まっている訳でございまして、普通監督さんはその枠の中で「出来る事」と「出来ない事」を判断すると思うのでございます。
で、何を描くのか、何を切るのかを決めて実行に移すのだろうと考えるのですが、まれにあれもこれもと詰め込んで過積載のまま走っている方も見かけたりいたしますが、本作はそれとは違う違和感を感じております。
なんと書くのが適当なのかよく分かっていないのですが(笑)
感覚的に一番近いのは「ダイジェスト」を観ているといったものでしょうか。フリュネとクレインとネッサの描き方・描かれ方は、もう少し濃密でも良かったとは考えますが、まあその辺は監督の裁量ですからともかくといたしまして、今回のスンダやエンリのクレインやネッサへの対応ですとか、ディアスの振る舞いはどうしても唐突に見えてしまうのでございます。
本来描かれていて然るべき部分が不自然にスッポリと抜け落ちていたように感じられまして、まるでクレインたちだけに焦点をあてた再編集されたフィルムを観ているような感覚なのでございます。
最初から「枠」が分かっているのでしょうし、そもそも最近のシリーズものとしても短い枠しか与えられていなかったのですから、本当に描きたいもの・描きたかったものだけに傾注して構成していれば、例えばスンダかエンリのどちらかを削る、あるいは両方削ってしまうですとか、ね。
お話自体の「監督のやりたかった事」につきましては、個人個人で受け止め方が違いますので、そのことはどうでもいいのです。でも、作品として隅々まで気を配って下さっていれば、今回スンダがクレインのために砲火の中を飛んでくれた部分や説教してくれた部分、エンリがネッサとした会話にもっと感動したと思うのですが、…そういうのはいらない監督さんなんでしょうかねぇ。
少し前の土曜日にNHKのラジオ番組のゲストに山本監督がご出演しておりまして、その中で「岡田さんは毎回冒険作品の脚本を書いてきてくれたんだけど、毎回僕がそうじゃなくてと書き直してもらったんですよ」と嬉しそうに喋っておりまして、それを聴いていて「いや、そのまま岡田さんの書いた冒険作品が観たかったよ」とツッコんでしまいました(笑)