さらい屋五葉 第十二話(終)『もうふらふらですよ』

全てが明らかになったお話。…最終回ですから当然ですね。

  • 弥一が五葉で証明したかった事

前回の感想で

かつての自分と同じように「家」に見捨てられた武家の跡取りが見たかったのか、それともいとも簡単に息子を見捨てる武家の非情さを・愚かしさを見たかったのか。

と書きましたが、今回のお話を観ておりまして、どうも違っているような気がしてまいりました。
弥一(誠之進)が五葉で武家ばかりを拐かしていたのは「本当に武家は養子(あるいは庶子)というだけで、それまで育てていた子供を殺せるものなのか?」という疑問をずっと抱えていて、その答えを求めていたというのが正解なのかもしれません。
本当に自分は捨てられたのか、不必要というだけで「処分」されてしまう存在だったのか。その弥一の疑問に対する答えが前回の拐かしで明らかになった訳です。その通り、と。
恐らくそれは「白楽の仁」にそう告げられた時からずっと抱いていた疑問だったのでしょう。だからその答えを知った時、弥一は五葉を使って拐かしをする意味を失ってしまい、さらに「白楽の仁」の語った事すべてを信じてしまった訳ですね。「この話を持ちかけたの男の名前は弥一」という言葉を。
幼い弥一(誠之進)にとって養い親は元々疎い存在でしたから、捨てられたとしても立ち直れたかもしれませんが、心から慕っていた弥一にも裏切られたと知った時、弥一(誠之進)の心は完全に折れてしまったのでしょう。
以後の弥一(誠之進)の眼がいつも「半眼」だったのは、目を見開いて世の中を見る気力がなかったのと、薄汚い人の世を見ていたくなかったからではないでしょうか。
それでも一縷の望みで、そうした事実を否定したかったから五葉で拐かしを続けていたのだと考えるに至りました。

  • 掛違い

仁にしてみれば拐かした誠之進が「帰るところ」に未練を残しているので、それを断ち切るために誠之進が信頼している弥一の名前を出したのでしょう。
もし誠之進が三枝の家へ戻れば殺されていたでしょうから、あの嘘はあの時点では悪人・仁の最大限の優しさだったはずです。
ただ仁のその嘘は誠之進の命は救ったかもしれませんが、心を救えなかったことに気が付いていなかった事がその後の不幸を招いてしまいます。
もし仁がもう少し丁寧に誠之進を諭していたら結果は違ったものになったと思いますと、本作はほんの僅かな掛違いが悲劇を生んでしまうという事を丁寧かつ繊細に描いていたと思います。

  • 弥一の開眼

最後の瞬間に仁の口から真実(誰に頼まれたのか本当は名前なんて知らない)を知らされ弥一(誠之進)は仁を殺めた訳ですが、さらに「そう言わねえとお前は殺されてた」と言われてすべてを悟ってしまいます。
救ってくれた白楽一味を裏切り、庇ってくれていた弥一を疑い、そういう過去に囚われて悪事を働き、それを助けてくれている仲間を信じていない自分を。
ここからの描写が堪りませんでした!
頭の良い弥一(誠之進)ですから、八木の話ですべてを理解していたはずなのですが、過去(仁)を葬った後でなければ弥一の墓に行けない不器用さ。
そこで止まっていた時間と浄化の象徴として雪が降り、弥一の墓の前で政之助の膝を借りて泣いた場面で今回終始抑えていた「色」を一転鮮やかな色に変化させることで弥一(誠之進)の変化を表現してみせる望月監督の腕に惚れた(笑)
本当は変化した後の五葉のお話や、存在感を増し始めた八木との係り合いも観たいのですが、それはまた別のお話ということなんでしょうねぇ。

  • まとめ?

とにかく格段大きな事件が起きるではなし、「ちょんまげもの」だしと、現在のアニメのトレンド(死語)からみれば極北とも思える題材の作品でございましたが、そのかわり一人の人間の生き様と、それを取り囲む人間模様を丁寧に描いた作品でございました。
もちろん原作が素晴らしい事はアニメを観ていても容易に想像できるのですが、アニメとしてその原作の良さを十二分に引き出していたと思います。
動かすのが難儀そうなデザインでございましたが、アニメーター各位の努力で違和感はございませんでしたし、作品世界を引き立たせた背景美術はもちろん、声優さんたちの演技も見事でございました。
なにより画面の隅々まで気を配って下さり、完成度の高い作品を作ってくださった望月監督に感謝でございます。
本当は弥一(誠之進)にとって政之助とはどういう意味があるキャラなのかということも考えなければならないところでございますが、ここまでのエピソードでは(私には)材料不足でございますからパスすることにいたします。
いつか続編が観ることができれば幸せなのですが。