鋼の錬金術師 第54話『烈火の先に』

泣いた・・・。
エンヴィー。
作者の荒川弘さんの眼差しが温かいものであることは十分承知していた筈なのですが、それでも尚その温かさに泣かされました。
エンヴィーや他のホムンクルスは自分の意志で生まれてきた訳ではありません。「おとうさま」の意思によってこの世に生を受けました。それ自体は「人」も同じで、誰も自分の意志で生まれる訳ではありません。
でも人はどのような状況に置かれても、強い意志と不屈の闘志さえ持っていれば自分の望む生き方ができます。いえ、そんなものが無くたって自分の意志で自堕落にも生きて行けるのです。
エンヴィーや他のホムンクルスはどうでしょう。彼らは自我を持っていても「おとうさま」のコントロールの外では生きて行けません。「おとうさま」の命ずるままにしか生きて行けないのです。
さらに彼らは「おとうさま」の感情(業?)を一つずつ与えられております。これは「おとうさま」の考えからきておりまして、その真意は不明なのですが、思いますに「複雑で複数の感情をひとつの入れ物に同居させている故に、人は脆弱な生き物」と判断したのかもしれません。
しかしエンヴィーはその特性故(「嫉妬」とは、他者と自己を比較するから生じる感情だから)気付いてしまったのです。確かに人は弱く脆い。でもそれら負(に見える)の業すら人を人たらしめる重要な要素なのだと。
エンヴィーは「人」になりたかったのでしょうか。しかしエンヴィーには嫉妬するしかないのです。彼にはその業しか与えられていないのですから。自分を変える事も、臨機応変に生きる事も、高い志を持つ事もできなかったから。
だからエンヴィーは人を憎み、嫌い、踏み潰したのでしょう、それを意識する事なく。でも人は何度踏み潰しても立ち上がってくるのです。とうとう彼は人の「怒り」の前に立たされ恐怖することになったしまいました。
あの場面でエンヴィーは最後の力で呪詛に似た言葉を吐きだしました。その虚しさと哀れさにエンヴィー自身が気がついていない事に涙を流さずにはいられませんでした。それは単純な悪役の悪足掻きには聞こえなかったからです。
本作でホムンクルスたちは損な役回りを演じなければならなかったのですが、彼らの本質は全ての「人」が持っているもので特別なものではございません。ですから彼らがしてきた事を肯定は出来ないと致しましても、否定できる人間が居る筈もございません。
「罪を憎んで人を憎まず」ではございませんが、彼らはそう生きるしかなかったのだよという作者の優しさが胸に迫ってまいりました。
ロイ。
千々に乱れる心を救ったのは、人と人との「繋がり」と「想い」。生きてきた時間は無駄にはならなかった、無駄にはしないという、これまたホムンクルスの生きる時間と対照的な描き方でございました。
「憎しみ」というひとつの感情だけで「人」は生きられない。それこそがホムンクルスと人の決定的な違いなのだと言う事なのかもしれません。
Bパート。
一転して迷いの無い生き方を体現しているオリヴィエさんの活躍が中心。彼女からしてみればロイたちが悩みや苦しみに迷っている姿は「若造!」ということになるのでしょう。まあでも、そこをくぐり抜けませんとオリヴィエさんのいるところまでは辿り着けない訳でして(笑)
そして満を持して「通りすがりの主婦」から「錬金術師」へジョブチェンジしたイズミさんも登場たり、「おとうさま」の元へ「奴隷23号」が辿り着いたりと、毎回佳境で観ている方も毎回ハイテンションでございます。・・・最終回まで身が持つでしょうか(笑)
それにいたしましても残り8回(?)で本当に終わるのでしょうか?無理に詰め込むくらいなら、いつもは否定するのですが「続きは劇場で!」商法も本作だけは肯定しても良い気がしてきました(笑)
今回は他にも書き残しておきたかった事がありますが、まあいいや(笑)