戦う司書The Book of Bantorra第19話『阿呆と虚空と踊る人形』

 予定されていた通りヴォルケン死す。しかし(私には)この死には特に意味が見出せず少し困惑したのも事実でございました。意味があったと致しますと「ハミュッツに睨まれたら死からは逃れられない」という位でしょうか(笑)
 冗談はさておき、全てを知る者(ハミュッツと極一部の者)と何も知らない者(ほとんどの武装司書とバントーラで働く者たち)の間、きな臭さを嗅ぎとり知ろうと動いた者の代表がヴォルケンくんだったと思います。
 本作が「武装司書」と「神溺教団」の「戦争」ではなく、「楽園管理者」の存在を隠蔽するための「内部抗争」であるのなら、ヴォルケンの存在は「知らない者たち」に「知らせる」引き金として実は重要だったと思うのですが、その仕事を全うすることなく惜しげもなく退場させてしまいました。
 この解釈をどうすれば良いのか、今のところ分かりかねております。…途中ですからね(笑) ヴォルケン自身ではなく、彼の「本」こそが重要な鍵なのかもしれませんし、それは本作が完結してみませんと…、完結するのでしょうか(笑)
 レナスの開放した記憶、「愛」の意味も現段階では不明。少なくとも私には不明(笑) そしてハミュッツがベンドルガーを必要以上に執着(恐れる?)理由も…。理解力が足りません、なんとかしないと。
 このまま「断片」の情報しか提示されないで最終回まで行きそうな予感がいたします。その構成はとても見事だとは思うのですが、問題は視聴者である私がその「断片」を全部記憶していられるかということでございまして、読み返すのが簡単な「紙媒体」向きの物語だと思うに至っております。
 神々の世が終わってもまだその時の記憶、と申しますか神々の支配から完全に抜け出せない人の時代から、人が歴史を作り出すまでを描く物語のように見えます本作(あきまで私の主観なのです)が、「神話が終わって歴史が始まる」って、銀英伝でしたっけ? そこまで描いていただけるのでしたら立派だと思うのですが、さて尺が足りるのでしょうか。(いつもそうですが、今回はあまりにも舌足らずでしたので少し修正いたしました)