獣の奏者エリン 第50話(終)『獣の奏者』

 ヌガン率いる闘蛇の前で孤立無援になってしまったシュナンを助けるべく、エリンはリランに乗ってシュナンの元へ飛び立った。王獣の力によって闘蛇を無力化したエリンたちはシュナン救出に成功したが、誤解したシュナンの部下たちによってエリンは射掛けれれてしまうのだった。
 瀕死の重傷を負いながらシュナンをリランに乗せて救ったエリンだったが、今度は意識を取り戻した闘蛇の群れがエリンへと殺到するのだった。その時・・・、というお話でした。
 ひとつのストーリーがあるアニメとしては最近では珍しかった長編作品の終幕でございました。第一話を観た時「変な演出」と無礼な感想を書いた「獣の戦闘シーン」も今となりましては良い思い出(笑)ですが、ここまで観てきた後の感想といたしましては、アレを通常の絵柄で表現した場合は余程の手練手管を用いりませんと「陳腐」になったのだろうというものでございます。
 デザイン化し抽象的な絵柄を用いる事で、視聴者それぞれの想像を膨らませる事の出来る秀逸なアイデアだったようです。・・・「創作」というものに才能の無い人間は「創作者」の繰り出すものを早計に判断してはいけないという好例でございました。自戒しなきゃ(笑)
 物語といたしましてはAパートでエリンが倒れ、そのままお亡くなりになった方が良かったのかもしれません。別に悲劇のヒロインとして死ぬ事がエリンの物語の終幕として相応しいという事ではございません。
 あの時点でリョザ神王国の新しい未来は約束されておりました。その新しい国には闘蛇の武力も王獣の威光も必要はありません。神話の世界から人が造る新しい国の誕生なのです。それは同時に「獣たち」を人の呪縛からの解放でもあります。エリンが望んだ「あるがままに生きる」世界の到来なのです。
 であるならエリンや霧の民の持つ力は必要ありませんし、むしろ「あってはならないもの」でしかないでしょう。危機が去ってもエリンが持つ「不思議な力」が「ある」だけで次の火種になりかねないのです。ですから物語としては新しい世界の誕生を予感させ、エリンもそれを認識し満足しながらその生涯を閉じるという形であった方が収まりは良かったのではと考えたわけでございます。
 「死」そのものにも意味があると考えれば主人公である「エリン」が死んだから悲しい、生き延びたから嬉しいといった単純なお話では決してありません。エリンが生き延びた事で喪われたであろう物語、それがなんであったのかはまだ思案中なのですが、そうした物語が「あった」とような気がしてならないのでございます。
 一方で、生き延び子供が生まれたことで繋がった物語の存在を素直に喜んでいる自分にも気が付いております。この辺は理屈じゃありませんね(笑) 
 そして主人公のエリンが女の子であった意味を改めて知る事にもなりました。エリンの名前の由来になったリンゴをソヨンから受け取りジェシに渡すことで繋がる命を表しておりましたが、だからこそエリンは女の子でなければならなかったのでしょう。産み育て繋ぐ。これが出来るのは女性の特権でございまして、男の子には逆立ちしたって無理なことですからね。
 命が繋がった事で物語りは作品としては語られる事の無い「終わらない物語」へと進んでまいります。位の上下に関係なく連綿として繋がる人と生き物の営みの物語として。・・・実に上手い終わり方だったと思います。
 できればここまで登場して来たキャラのその後なども描いて欲しかったと思うのですが、それこそが「野暮」というものなんでしょうね。どこにいても、どんな境遇にいようとも彼らが精一杯生きている事に違いはない、それはこの作品を観ていれば分かる事なのだから。スタッフ各位の声が聴こえてまいりました(笑)
 あー、来週からはエリンに会えないのかと思うと軽く落ちこんだりいたしますが、原作本を読んだり、反芻したりして感想の延長戦もしたいと思います。・・・思うだけかも(笑) ともかく、スタッフの皆様には感謝!