化物語 第八話『するがモンキー 其ノ參』

 戦場ヶ原を巡って阿良々木と神原の壮絶な死闘が始まった! ・・・嘘ではありませんよ(笑)
 ヒロインごとにOPが用意されているようです。が、聞いた噂ではシャフトの制作体制が洒落にならないようで、本作と「懺・さよなら絶望先生」も放送当日まで編集作業(作画という噂もありますが、いくらなんでも・・・ねぇ(^^;)しているような状況のようです。
 まあ、この2作品は「動き」という部分では上手い具合に「手抜き」(その代わり演出で魅せるわけですが)ができておりますからなんとか間に合うのかもしれませんが、今回の阿良々木と神原のアクションシーン(ここは実に気持ちの良いアニメートでした)やOPを観ておりますと心配になるというものでございます。・・・死人が出ませんように。
 といった諸々の困難な状況にもかかわらず作品のクオリティは落ちる様子もございません。さて本編。「猿の手」のお話は善人の願い(もっとも自分で努力をしないで結果という果実だけを手に入れようとする人間を善人とは言いませんか)を最悪の形で叶えるというお話ですが、本作作者はそうではなく、人の心に潜む醜さにこそ原因があるというお話に変更しておりました。
 怪異を扱っているけれど、実は人の心を描くと言う点では最近まで観ておりました「蟲師」と似ておりますが、いや文学の本質は常にそこにこそあるのでしょうから、この作りは至極真っ当かと存じます。
 そうした内側の問答で終わっていても作品としては問題なかったと思いますが、作者の過剰ともいえるサービス精神がそれを許さなかったのでしょう(笑) 戦場ヶ原が登場して全てを破壊(若しくは浄化)してしまいました。自分自身だけではどうしようもない、やり場のない心の闇を取り払い救うために。
 仮に神原が自分で全てを解決しなければならなかったといたしますと、その結末は悲惨だったように思います。まだ若く、人生経験の短い人間が、己の身に降りかかった怪異とその結果を受け止められるとは考え難いですし、それでも神原が自身の力だけで事を解決したとすると、この作品は随分と陳腐に感じたと思います。
 そうならないよう、それでいて納得できる唯一の方策としての他者の介入であり、それが許されるただ一人の人物(ある意味当事者ですし)としての戦場ヶ原の介入の選択は納得の行くものでございました。・・・でも紙原の腕はあのままでいいのでしょうか(笑)