東のエデン 第11話(終)『さらにつづく東』

 深夜1時半過ぎに視聴終了。視聴したあと直ぐに書き出すのは「あとで読み返して恥ずかしい事を書いている可能性が高い」という危険もございますが、多少興奮しながら書いて、あとで推敲…しない方が「生の感想」としていいかも知れません。今回は最終回と作品全体がゴッチャになった感想です。
作品として
 作品世界を構築してその全てを見せるか、あるいは一部分を切り抜いて「描かれなかった」部分を観衆の想像に任せてしまうのかは創作者の特権だと考えております。重要なことはエンドクレジットが出た時「作品」として成立しているのか否かだけでございます。「(様々な制約の中)描ききれなかった」という言い訳は聞きたくもありませんし、物語の創造主としてそれだけは言ってはならない事と存じます。
 本作は放送前から「劇場作品」が作られることがアナウンスされておりましたし、それ故テレビ放送において中途半端な作品になるのではないかと危惧しておりましたが、それは全くの杞憂であったことをここに書き残しておきたいと思います。
 確かに「設定」や「伏線」の全てが利用されていた訳でもございませんし、なによりその後の日本や「滝沢朗と咲」と他のセレソンたちとの関係も気になってしまいます。気にはなりますが、このあとが描かれなかったとしても作品としては問題はありません。「東のエデン」は11話で完結しました。それも素敵なお伽話として。
ジョニーについて
 さて過去の疑問についての解答のようなものが描かれておりましたのでそこから片付けておきます。ただし、解釈はいつもの通り「思い込み」ですから真に受けませんようお願いして、と。冒頭に裸のニートがショッピングモールになだれ込んで来るシーンがございました。始めは人の影でしたが、次第に変化して行きます。
変化後
 このシルエットは明らかに「ジョニークリーチャー(以下ジョニー)」でございます。そこから導かれることは「ニート」に限らず滝沢朗にとって個体を認識できない「庇護すべき対象」全てが「ジョニー」であるということでしょう。大杉が「白鳥・D・黒羽」に連れ去られた夢を見ていた時「ジョニー」だったのも、あの時点では大杉の顔を認識していなかったという事で説明がつきますし。
 さらに4話で幻影を見ていたシーン。まとわりつくジョニーたちを可愛がる朗、それが行き過ぎて依存するようになった時「この役立たずどもが!」と叫び遠ざけるあのシーンも、最終話を鑑賞したあとならその意味するところも理解できました。ま、答えがどうであろうと自分の中で納得できたので、これで良いと(笑)
 ただ、何故人ではなく「ジョニー」なんかという根本的な疑問は晴れませんでした。人ではなく人に似たもの、その意味するところは必ずあると思いますが、現状では判断がつきかねております。…永遠の謎かもしれませんが。
諸々その一
 さて、今回は最終回に相応しい…かどうかは分かりませんが、「サンダース・キッド」「ゴールデンリングのないメリーゴーランド」といったなんとも「やるせない」台詞がございました。(それぞれの台詞の意味するところは検索して察してください)そして最大の哀しさはこのシーン。

 ジュイスに依頼したあと鳴り響く「何か」のプログラム。多分以前使用した「記憶消去プログラム」なのでしょう。以前はニートたちを守るために使ったプログラムを、今度は「咲」を守るために使ったということなのでしょう。記憶を失ったから、どこか虚ろな瞳になってしまっている、と考えますと納得もいきます。
直前の生気溢れる瞳と対照的な朗の瞳
諸々その二
 朗は「王」になったのかもしれませんが、また全てを失ってしまうという悲劇的に見えるラストでございました。あくまでそう見えただけ、なのですが。なぜなら彼は誰かに強要されてその道を選んで訳ではありません。自分ができること、自分にしかできないことを自覚して選択したのです。
 それこそが「ノブレス・オブリージュ」の精神であり、その彼が歩む道が悲劇だとは思えないからです。傍観者にとっては悲劇に見えることでも、当事者の朗にとっては喜劇なのかもしれませんしね。
 閉塞した社会に風穴を開けるべく朗は「王」になることを決意してこの物語は一応の終幕を迎えました。朗はジュイスに「王様」にしてくれと申し出て、ジュイスは「王子様」と応えていました。この違いはどうしたことでしょう。絶対権力者としての「王」ではなくモラトリアムな「王子」。最終回でも宿題です(笑)
 「責任を取ろうとしない大人たち」に対して戦っていた「滝沢朗」は結局救おう、共に戦おうとした若者たちとひとつになれませんでしたが、でもその戦いは無駄ではありませんでした。たったひとり咲だけは朗を信じてくれたから。お伽話ですからお姫様が信じてくれただけで王子様は戦い続けられるというものです。
 でも物語はそこで終わりません。「王」になった男は今まで自分が戦ってきたシステムの中に入っていかなければなりませんし、幾多の勇者が「変えよう」とそのシステムに取り込まれてしまっています。「滝沢朗」はどのように戦うのでしょうか。それはまた別の物語ということでしょうね。
諸々その三
 朗は記憶を消したあと咲のコートに携帯を託しました。…おじさんこの時の朗の気持ちを忖度してウルウルしてしまいましたよ(笑) 「世界中の誰も俺の事を憶えていてくれなくても、俺自身が俺の事を忘れてしまっても、君にだけは憶えていて欲しい。君にだけは忘れないで欲しい、俺が居たことを…」ではないかと! …いや、映画を観ないと本当の意味は分かりませんが、テレビ版だけならこの解釈で間違いないはず…と信じたい(笑)
 本当は「何故朗がセレソンに選ばれたのか」ですとか「そもそも滝沢朗という人物は何者なのか」「亜東才蔵は本当に死んでいるのか」などの疑問も考えようと思いましたが、私の能力の限界で本日はここまでにいたします。それらへの答えが11月に公開される映画版で明らかになるかどうかは分かりませんが、観ないことには始まりませんしね。
 地方在住者にとっての問題は、地元では公開されないんじゃないかということでございます(笑) もっとも、テレビの画面でも停止・再生・巻き戻しを繰り返しませんと細部を確認できないほどの「情報量」ですから、結局はBD・DVDを買うハメになるんでしょうが。
最後の諸々

 「輪」から外れている「滝沢朗」と、その輪の中にあって朗を見つめる「咲」の視線が哀しい最終回のタイトル絵。これを見ていますと「股旅もの」の構図そのものだなぁ、などと埒もないことを考えてしまいました。
 この場所での「滝沢朗」は、やるべきことが無くなり次の場所へ旅立つしかなくなりました。ですが彼の旅は終わらないのです。彼がエデンという安住の地に辿り着くことが出来るのでしょうか? いえ、彼はエデンを作らなければならないのです。その時まで「滝沢朗」の旅も終わる事はないと示唆したラストカットでございました。
 素敵なお話を作り出してくれた神山監督と、そのために最大限の表現をして下さったアニメーターを始めとするスタッフ各位に感謝して終わりにいたします。
 …と、上は寝る前に勢いだけで書いたもので、案の定朝読み返すとやはり恥ずかしいものがございます(笑) でも勢いを大事にしたいので推敲はしないでそのままアップします。うん、幾つになっても恥はかいておきましょうか。