蟲師 第26話(終)『草を踏む音』

 光脈筋に添って漂泊する「ワタリ」の少年「イサザ」と、光脈筋を守っている一族の少年「沢(さわ)」の淡い、それでいて強い友情を描いたお話。最終回だからギンコが大活躍するお話が選ばれても不思議はありませんが、このスタッフはあくまで自然体、淡々とこの世界を描いて見せてくれました。
 今回のお話は「自然を手に入れたと思い上がってはいけない、ただ一時借り受けるのだと自覚しなさい」といったところでしょうか、自信はありませんが。もしかすると「何年経っても友のことを忘れない、その美しさを手放してはいけない」かもしれません。受け止め方が色々出来ることがこの作品の素晴らしいところでございました。
幸せな結婚
 「原作が素晴らしければアニメ化された作品も素晴らしいに違いない」という思い込みが幻想に過ぎないことは、過去の数多くの経験から学んでおります。失敗の原因は原作が小説か漫画かで少し違うのですが、漫画が原作の場合一番大きな問題は「絵」という同じ手法で表現するが故の配慮の欠如だと考えております。
 漫画のコマ割というのは不思議な手法で、単にカメラワ−クとしてだけ機能しているのではなく、アレひとつで時間や空間を飛び越えたり切り抜いたり閉じ込めたりと様々な効果を持っております。それ故アニメ化に際してはひとつのカットに込められた作者の思いというものを掬い取る必要があるのですが失敗するアニメの大部分はそこの配慮が足りておりません。
 この「蟲師」と言う作品の素晴らしいところは、原作の持つ空気や雰囲気といった「掴み所の無い」部分を表現することに最大限の努力がなされているところだと思います。原作にはない(カラー原稿の時は存在しますが)「色」の使い方で、ほんの僅かな動きで、音声で、効果音で、監督の長茺博史さんはありとあらゆる手を使ってその「空気」を表現し、そしてそれは成功しておりました。
 もちろん監督が方針を決めたからといって「道具」が粗末でしたらその限りではなかったでしょうが、この劣悪な制作環境の中、総作画監督馬越嘉彦さん以下美術・撮影・音響スタッフの見事なお仕事振りを拝見いたしますと、監督は幸運であったのでしょう。そしてそれは原作者の漆原友紀さんにとっても幸運なことだったと思いますし、視聴者にとっても幸せな結婚だったと考えております。
 原作の素晴らしさは私ごときが書いても仕方がありませんが、一言だけ。「蟲」という異物を通して作者が見つめていたのは常に人間で、その愚かしさ醜さ哀れさ弱さ美しさ儚さ強さ…人は一様ではなくそれでも人は愛おしいという想いが伝わってまいりました。
 終わったような続くような終わり方でしたので「続編を!」という思いもあるのですが、ギンコは今も光脈筋を追いかけていたり蟲を探している、眼に見えなくとも蟲は今もそこにいる、というような趣のある終わり方でしたのでそれ以上を求めるのは野暮というものでございましょう。
 この後はDVDで何度も見返させていただく事にいたします。素晴らしい作品をありがとうございました。