東のエデン 第8話『あらかじめ失われた道程をさがして』

 「ジョニークリーチャー」再登場。前回は「迂闊な月曜日」の爆心地を朗が訪れたとき現れておりましたが、今回は白鳥に連れ去られた大杉(朗がこの夢を見ていた時点では「ジョニークリーチャー」は大杉と思っていた)がソレに置き換わっておりました。
 で、これが何を意味するのかが判然といたしません。朗の見るアレが複雑な心象風景の幻なのでしょうが、何故朗はアレを見るのか。そして一番分からないことは神山監督が何故アレを画面に登場させるのか、その意図そのものでございます。
 前回では朗の出現に喜びまとわりつくが直ぐに攻撃的になり、始めは愛情を持って受け入れていた朗も厳しい態度を取っておりましたが、あの距離感に示唆するところは何なんでしょう。フロイトユングなんかの勉強しておけば、監督に意図したものの尻尾くらいは捕まえることが出来たのかもしれませんが、今更遅いですね(笑) 最終回までにその辺を掴む事が出来ればと考えておりますが、難しいのかもしれません、色々な意味で(笑)
 他の「ゲームプレーヤー」のことをもっと知るため近藤から渡された携帯の解析の必要性を認識。それをできそうな「板津」を京都に訪ねる。何故京都なのかは不明。これにも意味があるのでしょうか? 単にスタッフの誰かの出身地なのでしょうか? 些細なことにも意味がありそうに考えてしまうのは重症だと思いました(笑)
 自分で消した過去を調べるというのはいかにも不毛な行為に思えますが、それでもリセットしなければならなかった理由が存在するのでしょうし、それが何であるのかが当面の目標かもしれません。…でもあと3回しかありません(笑) どうするつもりでしょう、劇場エンドは「あらかじめ約束された道程」ですが(本作は開始以前にそうプレスリリースされておりましたから)、問題は田舎では観る事ができないかもしれない心配もあるのですよ。ああ、心配だ。
追加分
 投稿してから新聞やニュースサイトをながめ、色々な記事からこの国の「大人(自分も含んでます、悲しいけれど)」のダメさ加減を痛感し、同時にこのエピソードで平澤と春日の「ゾンビ映画におけるショッピングセンターの位置付け」会話を思い出しました。
 今若い人は政治に興味を無くしているようですが、大人が馬鹿なことをいつまでも続けていれば堪忍袋の緒が切れるのも時間の問題でしょう。その時、ショッピングセンターの中にいるのは誰でしょう? てなことを考えてしまいました。