地獄少女三鼎 第二十三話『日暮れ坂』

 正味20分の本編でありながら、かなり凝った作りになっていて感心いたしました。当初「色物」として拝見していた事を素直に反省。
 何不自由なく学校生活を送る文男を執拗にいじめる友秀、というところまでは普通の「いじめの風景」でした。友秀と文男の家庭の違いを見せ「ああ、妬ましさからのいじめなのか」と。確かにこれは間違いではありません。
 一方は名門校高への推薦入学が決まり、一方はその学校の野球部へ進みたくても家庭の事情で叶わない夢である、何の目的もなく(もっとも文男はいじめから逃れるために全寮制の遠くの高校へ進学するという目的があるのですが)当たり前のように進学できる文男と、目的を諦めなければならない友秀の対比までは「普通」だったでしょうか。
 しかし友秀の胸に「地獄流し」をした者の証の刻印が提示されたところで、そうした単純な構図だけではないと見せてくれる訳でございます。ちなみに友秀の胸に刻印があったのは、以前彼にまつわるお話があったのかと思い確認しましたが、該当者がございませんでしたのであくまでこのお話上必要だということでの刻印のようです。
 描かれていた内容だけから推察いたしますと、友秀の「流した」相手は父親なのでしょう。原因は家庭内暴力か金銭にだらしなかったのか、その辺は定かではございませんが、ともかく家族を守るために「父親」を流した。それで幸せになれると考えていたが現実は残酷で、母親は夜遅くまで働き妹も健気に兄を思いやってくれるのだけれど、自分は好きな野球の道を諦めるて働きにでるしかない…。なんという閉塞感でしょう。
 やり場のない怒りが「自分には手の届かない当たり前の幸せ」を享受していた文男に向いた、ということなのでしょう。この脚本に道理はございませんが、心情的には…分かっちゃまずいのでしょうねぇ…。でも今回はそこら辺の「心の描写」が非常に上手く伝わっておりましたからこそ、「いじめ」と方のキャラに同情できたのだと思います。脚本は「根元歳三」さん。憶えておきます。
 「流そう」としている文男に対して「俺を流しても手前の人生は何も変わらない」という友秀の台詞が印象的です。「流した」あとで進学先の高校を下見に来た文男が見たものは、開放されたと思った「いじめ」の暗示でした。解決方法は「流す」(逃げる、とも考えられます)ことではなく、自分の力で解決すること。「流した」友秀はそのことを知っていて文男に「忠告」したとも見えるシーンでございました。…結果的に無駄でしたが。
 この内容でありながら、キクリのギャグパートもありましたし、なにより「あい」と「ゆずき」の最終決戦(?)を匂わせた部分もきちんと描いておりました。演出は「高村雄太」さん。こちらも記憶させていただきます。さて、「ゆずき」が最後に飛び込んだ古びたアパートはなんでしょう。怖くなってまいりました(笑) 最近の不満はギャグ描写が少な過ぎることだけでございます。