キャシャーンSins 第22話『永遠という名の雫』

見る度に考えることが変わってしまいます。先週の感想では「ロボットより人間を出していた方が良かったのでは?」と書いたのですが、今週のお話を観ていましたら「やはりロボットで正解なのか」と感じてしまいました。我ながらフラフラしておりますね(笑) こういう作品の場合は最後まで観てから感想を書く、という姿勢が適していると痛感いたしております。
 ロボット(アンドロイドか)が自我を持った時、自分が死なない存在であるということの持つ意味をどう考えるのか。永遠とはどういうことなのか、死ねないとは…というところに思いを巡らせますと、翻って「人」の儚さを浮き彫りにしたいのだろう事に至ります。
 永遠であってもロボットの場合それは「閉じられた永遠」でしかありません。何処まで行っても変わる事のない時間。そこに意味があるのか? しかし「人」は短い時間を受け渡しながら「永遠」より長い時間を旅して行きます。「死ぬ事」は次の時代の始まりですから、実は「滅び」は必要不可欠な要素でございましょう。…上手く考えがまとまりませんね(笑)
 永遠という「牢獄」に繋がれていることに気がつかない「レダ」、生きている証があればかまわない「ディオ」。既に「生と死」に対する考え方が正反対になってしまいました。そしてキャシャーンは「滅ぶ」ことを望みながらそれを許されない神話の「プロメテウス」のように永遠を彷徨うしかないのでしょうか。
 かつてのルナは「死」を与えていて、今のルナは癒しを与えているその意味するところはなんなのでしょうか。じれったいなぁ、もう(笑)