新世界より 第二十五話(終)『新世界より』

サイコバスターを失った早季たちだったが、悪鬼の「愧死機構」の対象が人間ではないことに気付き起死回生の手段に出て、というお話。
不思議だったのは、悪鬼の愧死機構の対象がバケネズミに向いていたのなら奇狼丸の大雀蜂コロニーが全滅したのはどう解釈すればいいのでしょうか?悪鬼は直接攻撃しないで武器だけを破壊して、野孤丸の部隊が大雀蜂たちを全滅に追い込んだのかなぁ。
…確かに勇猛果敢な大雀蜂コロニーとはいえ武器なしでは打つ手なしだったのかもしれませんが、それなら奇狼丸は犠牲にならずに悪鬼を倒せたんじゃないのかなぁ。
まあその辺は有耶無耶にしておいた方がいいのかもしれませんね(笑)
全話視聴後の感想
人類を守るためといった大義名分があったにせよ「普通の」人間をバケネズミに変えてまで生き残ろうとする処に人の浅ましさと悍ましさを感じずにはおられませんで、どんな言い訳で取り繕ってもそこに正義はございません。
しかしだからこそ人間だともいえる訳でして、作中でも早季や悟はその選択をした人間を非難しなかったのは「自覚」があったからなんでしょうね。安っぽい「正義」ではなく醜くても必死に生きて行くしかない人間というものを彼らは知っている、いえ此処に至るまでの「経験」から学んだということなのでしょう。
ある意味で学べ、そして知った早季と覚は幸運だったのかもしれません。生存を賭けて戦った相手に対して憎しみに駆られて野孤丸に必要以上の罰を与えた愚かな人間とは明らかに違った「場所」にたどり着けたのですから。
でも早季と覚にしても、大多数の他の人間にしてもこの先生き残れるのかどうかは分かりません。最後のカットで新しい全人学校の廊下に掲げられた「想像力こそが、ずべてを変える」という標語の示唆するものは想像力を働かせて未来を見つめなければ過去と同じ過ちを繰り返し破局が訪れるという警鐘なのでしょうから。
そのカットに被せた子供たちの笑い声が明るい未来を作ってくれる希望の声に聴こえたのか、それとも悪鬼の嘲笑に聴こえたかは観客一人一人に判断してくれという監督の問いかけなんでしょう。見事な演出でほざいました。
キャラデ自体が「不安定」なものでしたから、あちらこちらに破綻(きっちりしたキャラデより描くのは難しいと考えております)していた箇所もございましたが、このどこか浮世離れした画でなければこの作品を作るのは難しかったと思いますし、総じてスタッフさんたちは頑張ってくれていたと思います。
また物語の細部は結構端折られていたようですがそつなくまとめられており、アニメしかしらない私でも(専門用語は兎も角)楽しく視聴させていただくことができましたのでこれも石浜監督以下スタッフの力があってこそでしょう。
楽しい時間を過ごさせていただき感謝でございます。