電脳コイル『最後の首長竜』

昔の人の言葉によると本来、人は必ず自分の進むべき道を知っているそうです。でも、一番大事な道こそ、見失いがちなのだそうです。
全26話の中で一番好きなエピソードがこの回です。原型となったのはSFの古典で、私でも知っているレイ・ブラッドベリの「霧笛」であろうとは思うのですが(とは言え、入れ物を借りているだけで訴えたいものは微妙に違うと思います)、このお話はアニメとの親和性が高いのか、それともよほど日本人の琴線に触れるのか以前も「海のトリトン」(15話「霧に泣く恐竜」)で使用されていました。(そういえばNHKで放送された「どーも君」の設定も同じようだったことも今思い出しました)
電脳コイルにとって11・12・13話の3回は、子どもたちともう一つの(明らかにイサコが追いかけているのとは別の)「イリーガル」たちとの交流を描いた作品群でした。この3回のエピソードはバッサリ切ったとしてもストーリー上は問題なかったと思いますが、そうすると登場人物たちはただの「駒」でしかなくなり作品の印象は全然違ったものになったことでしょう。監督にとってヤサコたちの心の内側と成長を描く一連のエピソードは絶対必要だったのでしょう、いずれも力の入った名作に仕上がっていました。
ダイチ曰く「コンピュータープログラムのバグ」でしかないイリーガルが痛がったり嬉しがったり悲しんだり・・・、生き物の様に振舞うイリーガルの様は自然と「命」の定義を考える助けになっています。人工物であっても「生き物」である、こういう考え方は日本人特有なのでしょうか?その考察は別の話になりますしこのお話とは関係ないので割愛しますが、少なくともヤサコたちにとってこの時の「くびなが」は間違いなく生き物だったのでしょう。デンパやヤサコたちはもちろんドライに振舞っていたフミエまで残された「最後の首長竜」を助けるために最大の努力をしました。
結果は「お約束」といえばお約束で、努力は報われず「くびなが」は朝日の中で消えてしまいました。でもそれは無駄な努力だったのでしょうか?違います。ひとつの「命」を通して子どもたちが学んだものは決して無駄ではありません。喪われた「命」にとっては「次」はありませんが、残された彼らには「次」が必ずやってくるのです。その「痛み」が大きいほど、今回上手くいかなかったことも「次」の糧になるでしょうし、そうすることでしか今助けられなかった「命」に報いる術がないのですから。
「所詮作り物の命なのよ!それもイリーガルよ、感情移入したら損なだけよ!」と作り物の命との別れに冷静になろうとしながらも号泣していたフミエはその事に気が付いていたと思いますし、この子どもたちの感情が爆発していたシーンはシリーズ全体を通しても一番素晴らしい場面でした。
悲しい結末でしたが磯監督はちゃんと救いも用意していてくれて、「くびなが」が目指した仲間のイリーガルのように見えた廃工場の5本の煙突が、ハラケンが「くびながはずっと一人ぼっちで寂しかったんじゃないかな。きっと仲間と同じ場所に行きたかったんだ」と呟いたエンドシーンで、いつのまにか煙突は6本になっていました。それは「くびなが」はきっと仲間の元に帰れたんだよという監督の優しい答えだったと思います。