精霊の守り人『宴』『旅立ち』

余韻も含めて綺麗に終了。『宴』に出てきたナージは15話で兄・サグムが死に際に逃がしたナージだったら、これ以上素晴らしい演出はないと思いましたが、いくらなんでもそれはやり過ぎというものなんでしょうね。
覚悟の人
原作者の上橋菜穂子さんがこの物語を「世界」優先で書かれたのか「バルサ」優先で書かれたのかは知りませんが、原作の面白さの要因は「バルサ」という登場人物抜きには語れないことだけは確かだと思います。ですが三十路の女用心棒という設定でアニメにするというのは、いくらなんでも今時の流行から大きく外れており、さらにファンタジーとはいえ、派手な魔法使いが出てくるような今日的な売りも、この作品には殆どありませんでしたから、視聴率もDVDの売り上げもあまりよろしくなかったという話を聞いても妙に納得してしまいました。
ではこの地味な物語に強く惹かれたのは何故だったかというと、偏にバルサというキャラクターの造形に縁るところだったととしか言えません。
バルサという人は覚悟を決めた人でした。父を殺され、故郷を追われ、自分自身の命も狙われると言う、自分の意思ではどうにもならない所で彼女の人生は決められていました。それを運命(さだめ)というのなら、なんとも過酷な運命と言う他ありません。初めて自分の意思で決めたことはジグロから槍を習うことでしたが、それはまだ覚悟とは呼べません。
彼女の覚悟は「ジグロが自分を救うために八人の親しい友人たちの命を奪い」「その魂を救うために同じ数の人を救う」ことを決意した時から始まったといっていいのでしょうか?それも少し違うでしょう。正確には「救う命のために対峙する相手の命は奪わない」と決めた時だと思います。ギリギリの修羅場で、人の命のために自分の命を賭けるという選択は覚悟なくしてはできないことですから。
作中のバルサが飄々とした(若干そうでない描写もありましたが、それは人間である以上どうしも捨てきれない弱さゆえの部分ということで)人物に描かれていたのは、そうした覚悟があればこその人物像だったのでしょう。そしてバルサの年齢が三十路である理由もその辺に由るのでしょう。作中では語られませんでしたが、チャグムの前に七人の命を救ってきた彼女が妙齢の婦人というのではリアリティがありませんからね。様々な経験を踏んで後、チャグムと出会った時のバルサは覚悟の人になっていたのだと思います。
こうした人物を描くに当たって監督で脚本を書かれた神山健治さんは、原作(精霊の守り人)ではあまり語られなかったこのジグロという人物に重きを置きました。王に追われるという自分と同じ境遇の子(しかもチャグムは実の父である王からだけに、ある意味バルサ以上の過酷さで追われることが予測できたにもかかわらず、です)を目の前にしたとき、バルサの心の中にあの日のジグロが居たことは容易に想像ができます。この作品のバルサはジグロという人物抜きには語れないし、バルサとチャグムの関係はすなわちジグロとバルサの関係と背中合わせだからです。
そこで監督は「精霊の守り人」だけでなく「闇の守り人」からも多くの引用をして、物語の再構築を試みたようです。ジグロとバルサの関係をより鮮明にすることで、バルサとチャグムの関係を浮かび上がらせようとしたこの試みは、作品に厚みを増し成功しているように見えました。(ただ、このおかげで「闇の守り人」編のアニメ化は難しいことになったとは思いますが・・・)
すべてが終わって『女用心棒バルサ』の冒頭シーンに帰るところは、必然なのでしょう。バルサは8人の魂を救った時に、9人目の魂を救いに故国カンバルに旅立たなければならない事に気が付いたからです。そう、彼女を守ってくれたジグロの魂を救うために。
続編が観たい気持ちもあるのですが、余韻のある良い終わり方をした作品でしたから、これはこれで良いのかもしれません。