花物語 するがデビル

やはりこの作品は一挙放送という形態が一番相応しいようで、…まあ製作サイドとしては苦肉の策だったのでしょうけど(笑)、一見意味のなさそうに見える言葉や風景は一週間経つと忘れてしまい情報だけが頭に残ってしまいますが、今回のような放送形態ではそれが回避でき「つながっていた」かなぁと。
例えば貝木(生きていたのか!w)と駿河が焼き肉を食べる回など、あれだけ放送されていたら「焼き肉が美味しそうだったな」ですとか「肉肉野菜肉ではなく牛牛豚鳥牛なのかw」などと本編に関係ないことだけ記憶してしまったような気が致しまして、本当に西尾さんもシャフトも「隠す」ことに無駄な腐心しているよなぁ(笑)
さて描かれていたこと額面通りに受け止めれば神原駿河の「猿の手」にまつわる怪異譚とその顛末ではございましたが、個人的にはこのシリーズは青春モノ以外には受け止められませんで、この「花物語」はその中でも青春の終わりという位置付けの作品と受け止めました。
駿河にとって「猿の手」は親の庇護の暗喩に見えまして、それは我が子を守ってくれてはいるのだけれど自我を持ち始めた子供にとっては鬱陶しかったり重かったりするものではないでしょうか。
子供はいつかそこ(親の庇護)から自立しなければばらないのですが、そのタイミングは明確ではなく実に曖昧。はっきりしていることは「誰にでもいつかその時はやって来る」ということだけでございましょう。
駿河は蠟花によって強制的に「猿の手:から解放されますし、その自由さと危うさ(バランスがとれなくなって転倒してしまう部分はその象徴でしょうか)を味わうわけですが、しかし自立するためには自分で決断しなければならないことに気づき蠟花から取り戻そうとするのがクライマックス。
彷徨えるかつてのライバルを成仏させてまで取り戻しても忍のおやつ(笑)にしかならないものを全力で取り戻す必要があったのかと考えますと当然ありまして、それは母の呪縛からの解放と自分の力で手に入れる自由のためなのですから。
逃げたり放置することで解決される問題もあるでしょうけど、この問題だけは自分の力で解決するしか解消されない問題。駿河は自力で「猿の手」と決別することができましたし、それこそが駿河に「猿の手」を残した母遠江の希みではなかったでしょうか。
庇護されていた青春から自分で決める青春へ。駿河は自分の「手」でそれを掴み、歩き始めたようでございます。
まあ他にも色々と考えさせられる内容がございましたが、私には青春モノとして優れた物語だけで十分なのでこの感想が作品に対する全てでございます。