輪るピングドラム 7th station『タマホマレする女』
多蕗とゆりの婚約発表に苹果が動揺したお話。
本作を観ていてどうにも不安定な感覚を覚えてしまうのは、この作品の「文法」と申しますか「お作法」が他の作品と著しく違っているからではないかという処に思い至る。
いや、違っていても「そういうものだ」と認識していれば問題はないのですが、一見したところ明確な違いが強調されておりませんで、であるからこそ通常の「文法」で作品を解釈していたのですが、そこでの間違いが「不安定」ば感覚に陥っているんじゃないかと。
小説でしたら一般的な作りである「一人称」と「三人称」の違いは誰でも最初の頁から理解できますが、アニメの場合必ずしも小説ほどそれが明確ではなかったりいたします。
ただ明確ではございませんが、主人公の視線で物語が進行しているのか、それとも第三者の視線で物語が語られているのかといった確実な違いは存在しておりますし、私たちはそれらの違いを特に意識することなく自然に物語を眺めているのですが…。
さらに一人称にしても三人称にしても、主人公といった物語の「核」は常におりまして、私たちはその「核」を頼りに物語を読み解いていると思います。
が、本作におきまして誰が主人公なのかが実に不明瞭なのでございます。そして誰の視線で物語が進行しているのかも分からない。「ガイド」とする手がかりの不在。ここに本作の居心地の悪さがあるんじゃないかと。
第一話を観た時点では「高倉兄弟(特に冠葉)」が主人公なのかなと考えました。もしかすると「ペンギン頭」かな?とも。しかし最近では苹果が主人公なのかとも考えておりますが、それも怪しそうでございます。
登場してくるキャラ全てがその時その時の主人公であっても問題はないのですが、そうであるなら物語を統括して語る存在が居るのが普通の配置なのですが、本作はその存在もおりません。
場面毎に主人公(視線の中心)が変化して、語り部は不在。
もちろんこれは構成が悪いのではなくて、こちらが勝手に慣れ親しんだ文法でこの作品を視聴したのが間違いであり、その間違いを綿密な計算の元狙っているのでしょう。
スタートは通常の文法で、そこから先は監督の仕掛けた「罠」にドップリと浸かって訳が分からなくなってしまっていたようでございます。…どこかで自分なりの「補助線」を引いて整理しないといけないのかもしれません。
まあ、そこまで考えないで物語の成り行きに身を委ねていた方が幸せなのかもしれませんね(笑)