出崎統さん死去

おっさんは出崎さんの作品が好きでした。大好きでした。愛していたと書いても差し支えございません。
演出家としては「数回繰り返されるパン」「多用される透過光」「(ハーモニーの)止め絵」などが特徴として挙げられますし、近年はその手法がパロディの対象ともなっておりますが、それらは伝えたい事を効果的に表現するために使っていたに過ぎず、その事だけで出崎監督を語るのは失礼というものでしょう。
監督の作品はどれも厳しさと優しさに満ちておりました。
見も知らぬ同族を助けるために凶悪な相手の元へ旅立ち、その同族から裏切られてもなお同族を救おうとするガンバたちには同族以外の仲間を与えてくれました。
父親(と信じていた)から売り飛ばされ、その売り飛ばされた旅芸人一座で苦難を共にした仲間が次々と倒れても、希望と明るさを失わず前に進んだレミには素敵な血のつながらない「家族」を与え、そのレミを支えたビタリス老人には、負け続けた人生の最後にすべてを託すに足る最愛の「息子」を与えました。
見つけ出した希望に殉じたジョー。でも監督は彼を決して不幸な人間として描いたのではなく「明日のために」戦い抜いた若者として描き、完全燃焼する意味を説いてくれました。
不幸で不運な人生を送った宗方にもひろみという「娘」を、どんな状況になっても「飛ぶこと」を諦めないシルバーには、その人生を見届けるジムを。
厳しく辛く哀しい生き方を描いていてもそれは不幸な事ではございません。何故なら彼らは「戦って」いたからです。その「戦い」の価値や大切さを知る出崎監督は映像にしてくれたのだと考えております。
「結果」ではなく「そうあろうとする意志」の重要性。出崎監督はどの作品でもその事を強く訴えていたように思います。
出崎さんが監督する作品の多くは、原作がありながら結果的に「出崎作品」として認識されてしまうのはこうした監督の哲学が作品全体を支配してしまうからでございますが、「監督の色」だけで楽しめる残り少ない貴重な方がいなくなってしまった事に脱力しかございません。
近年の作品は決して本意ではなかったかもしれませんが、「職人」としての監督はどんな作品でも全力投球だったと思います。でもせめてもう一度…、いやこれは詮無きことでございましたね。
たくさんの、本当にたくさんの作品で楽しませてくれてありがとうございました。…アニメ界の古き良き時代の終焉でございます。