ドルアーガの塔 the Sword of URUK 第11話『神をうつもの』

 遂にギルガメスと対峙する登頂者たち。しかし圧倒的なギルガメスの前に、次々と無力化されてしまう。そんな中カーヤを助け出したジルは力を合わせてギルガメスに立ち向かうのだった、というお話でした。
 なるほど、カーヤとカイの目的はギルガメスを倒すことではなく、邪神ドルアーガを倒したときかけられた「呪い」から救うことだったようです。ではその「呪い」とはどのようなものだったのでしょうか? 具体的には「二人の」ギルガメスに分離させたことなのですが、それにどのような意味があるのでしょう。
 一見永遠の命を得て良いこと尽くめのようにも見えるのですが、しかし離れ離れになった二人の「ギル」には埋めがたい焦燥が残ってしまった。本来登頂者であった「ギル」にとって「自分自身の力」で何事をも成し遂げることこそ「生きがい」だったはずでございます。しかし塔に捕らえられた「ギル」は自分自身では何も出来ません。
 一方塔から生還した「ギル」も英雄になり、王になり、善政をもって民から慕われても、それで心は満たされなかった。なぜなら国などは「システム」を作り上げてしまえば王など必要はないからですし、どのようなことをしても「飽き」はやって来るからです。ですが一度就いた「玉座」に逃げ場はないのです。アミナの存在がそれを端的に表すキャラだったと思います。
 失われてしまったもの、ドルアーガによって取り上げられてしまったもの、それは多分「自由」のような気がいたします。行動する自由、考える自由、愛する自由。ドルアーガの塔に登るまでは、あまりにもありふれていたいて、と申しますかギルガメス青年にはそれしかございませんでした。その「自由」を取り上げられてしまったギルガメスが、暗い情念に囚われたからと言って責めるのは辛い。
 しかもその鎖から開放して「永遠の自由」を取り戻してあげるには「死」という鍵しか持ち合わせていないカイとカーヤもまた辛い。けれどそれをしてあげられるのは、他の誰でもなく自分とかつての「泣き虫ギルガメス」と同じく純粋に登頂者たらんとしている「ジル」だけなのでございます。
 ああっ、なんという呪い、なんという悲劇でしょう! けれどジルによってギルは開放されたのでございます。
( ;∀;)イイハナシダナー …と、勝手に盛り上がっておりましたが、制作陣はそんな視聴者をあざ笑うかのようにもう一幕用意しておりました(笑)
 ああっ、もうなにがなんだか(笑)
 たとえどのような結末が用意されているとしても私は「賀東招二」さんを信じております!ええ、信じているともさ。